そがべピアノ教室講師

月曜日 川本花園教室  曽我部明子

火曜日 川本花園教室  曽我部明子

火曜日 深谷藤沢教室  二宮いずみ

水曜日 川本花園教室  二宮いずみ

水曜日 深谷藤沢教室  曽我部明子

水曜日 深谷藤沢教室  市川和代

木曜日 川本花園教室  曽我部明子

金曜日 深谷藤沢教室  曽我部明子

金曜日 川本花園教室  二宮いずみ

土曜日 川本花園教室  曽我部明子

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そがべピアノ教室 講師
曽我部 明子

はじめまして。

そがべピアノ教室 講師の曽我部明子です。

子ども時代に出会う大人の影響力は、良くも悪くも大きいです。

私は、レッスンに通ってきて下さる生徒さんに対し

  • その子の存在価値を認め、その子の良いところに目を向け、伝えていきたい
  • 自分を大好きになって、自信を持ってもらいたい
  • 生徒さんが自分のペースで、自分の意志で努力する、挑戦する事を、一緒に伴走しながら応援し続けていきたい

そんな想いで、日々ピアノレッスンに臨んでいます。

「今日はピアノに行って 楽しかった😄」

「弾けなかったあのフレーズが先生と練習したら弾けたよ😄」

と言って、ニッコリ・ほっこりできる教室でありたい‼

そんなピアノの先生であり続けたいと思っています。

私がめざす指導者像 ~ 反面教師となった、子供時代の苦い経験

「音楽と関わっていく仕事がしたいなぁ〜・・・」
と初めて思ったのは中3の秋頃だったかな⁉

音楽と関わる仕事=ピアノの先生

この図式が、当時の私の頭の中には定着していました。

今から数十年前 ――

5歳になった私は、父の従姉妹がピアノ教室を開いていたので、そこで習うのは自然な流れになっていました。

当時、教室でのレッスン時間は20分足らず…。
生徒さんは100人近くいたのではないかと…。

私は練習していかない子供でした。

「次はこの曲を弾いて来てねっ 」

とだけ言われ

「えッ!!どう練習したらいいの? どんな感じの曲なの?(心の叫び)」

わからないことだらけ???だったので、弾けなかった!が正しい・・・

レッスン時間は『弾く』という時間より、ピアノの前で『固まっている』時間だったと記憶しています。

特段、演奏が優れていた方でも無く、

練習熱心だった訳でも無く、

運動が苦手だったので中学に入ってからも

と・り・あ・え・ず・

ピアノは続けておくか・・・(;^_^A

みたいなノリで通っていました。

弾けないと、とにかく怒られた。

妹は余りの怖さに 教室へ近づくと腹痛やら嘔吐などで不調を訴え続け、自家中毒症で2週間の入院をしてしまうほど・・・・

父はもう少し弾けるようになって欲しかったようなのですが、妹の姿を見て、無理矢理にやらせるものではないと判断し、妹は2年で辞め、それから大人になるまでピアノには一切触れませんでした。

本人曰く、

「あんなに怖くなかったら、もう少し続けられた」

私だってピアノが弾けるようになりたかった・・・

心に傷を負ってしまった妹を見ていたので、

「私だったら、こんな風にピアノを教えたいな~」

と、少しずつ理想が膨らみ始めました。

鈍感だった私は体調を崩すまでには至らず、“親戚” の関係上、父の中で私まで辞めさせる選択肢は無く、連れて行かれていました(時には妹がうらやましくて)。

“ 練習していない曲の楽譜はわざと忘れて行く ”

などの策を取りながら、ダラダラと通っていた小学生時代。

音符が読めないから、もちろんすぐには弾けないし😢

リズムがとれないから、曲にもならず😂

先生は隣で腕と足を組み

「テンポが遅い」

なんて言われたときは、もう地獄行きの旅である。

メトロノームをかけられ

「あわせて、ほら、よく見て===」

(今思うと・・なぜ?メトロノームを見る???)

“私はロボットじゃな~い”(またまた心の叫び)

でも、何も言えなかった(´・ω・`)

「そうじゃないでしょ!! こうよ〜 ポロポロポロ〜ン 🎶」

と弾くだけ。

(いや~弾けっこないじゃん!って今思う)

弾けないと

「いい⁉ もう一回弾くからね〜」

と、段々 声のトーンが… 🔥🔥🔥

こ・ こ・ ・ 怖かった 😣 😣 😣💧

わからない ・・・

弾けない ・・・

自分が … 悪いんだよね〜😢

おバカなんだ…😭

練習しない私がダメなんだよね〜😰

と自分を責め、自信も持てず、レッスン室を出る時は

“今日もダメダメな、あっこちゃん”

と烙印を押された(気分になっていた)。

この深い落とし穴から這い上がるまで、時間を要しました。

私は生後10か月の時、先天性股関節脱臼と診断されていたので、両親は、私の足のことを常に気にしていました。

①過保護?
②放任?

「あなたはどう育てられましたか?」

の問いがあったならば

迷うことなく①に〇をすることでしょう。

「無理しないでいい」の環境下、ゆる~い日々の生活。

自分から何かをしたい・・とか

これは誰にも負けない強みだぞ・・・とか

競争心?なんて全くなく

だから、困難なことにぶち当たる、すぐに諦めてしまいました。

通知表には「諦めやすい子」と・・・・

担任の先生は毎年変わっていたにもかかわらず、6年間書かれ続けた記録保持者です。

「私って、なにやってもダメなんだ」

と、自分を好きになることができない子どもでした(明子ではなくて 暗子でした)。

自信が持てず “ これがしたい! ” という意欲もなく

「この子はどうなってしまうのか・・・」

と、両親も気がかりだったことでしょう。

母からは

「足が悪いのだから、座ってできる仕事がいいね」

と言われ続けていました。

きっと、私の将来を思い、せめてピアノくらいは続けていて欲しいな、と思っていたのかもしれません。

でも、家でも練習をしない我が子。

レッスンでは怒られ、涙を拭きながら出てくる我が子をみて

「ここまでして習わせる意味ある?」

「月謝を払っているのだから、もう少し上達してくれないかな・・」

きっと何度も思ったはず・・。

でも、妹の時のように

「辞めていいよ」

とは言ってくれませんでした。

親もピアノの習い事だけは、諦めさせたくなかったのかもしれません。

そんなこんなで、ダラダラとピアノを続けていくことになりました。

中学時代、転機となった担任の先生の言葉

自己肯定感どん底Maxの小学校時代から、少しずつ変化していくきっかけは、中学1~2年時担任の理科の先生ではないかと思います。

当時、小学校の先生の “えこひいき” が激しくて、勿論「諦めやすい子、明子ちゃん」は “えこひいき” の対象外。

5年時の男の先生と、6年時の年配の女の先生は特にひどく、当時は学校に行くのが本当に辛かった。

小学校から中学校へ進学するとき、成績が㊙で申し送りされるようなのですが、私の理科の成績が “5段階評価の1” ・・・

そのことは、中学入学後の家庭訪問で担任から聞かされました。

余程のことがない限り “1” はつかないと。

だから、どんな大変な子なのだろうかと思ったそうです。

その時 担任からかけてもらった言葉

「小学校はつらかったね、よく頑張ってきたよ。
中学校は、自分の努力が正当に評価されるから、頑張ろう!」

自分の存在を認めてくれる人がいる。

自分のダメダメ過去も「頑張ってきたね」と認めてもらえた。

真っ暗な闇の中にいた私に一筋の光が差し込み、物事に対して、前向きに取り組めるようになっていきました。

担任の先生との出会いがなければ、自分を変えることはできなかったと。

先生の存在は大きかったと思います。

私がめざす指導者像

子ども時代に出会う大人の影響力は、大きいです。
良くも悪くも・・

自分はどんな大人になりたいか?

私と同じような思いをしている子がいたとしたら

存在価値を認め、その子の良いところに目を向け、伝えていきたい

自分を大好きになって、自信を持ってもらいたい

他人と比べることほど無意味なことはないのだから。

今の自分を大切に

そして

未来の自分をイメージできるようなお手伝いをしていきたい。

もしかしたら、この頃から、漠然となりたい大人像をイメージしていたのかもしれません。

相手の立場や、気持ちを想像してピアノを教えていてくれていたなら、妹も “ピアノなんて大嫌い!”と言い放つまでにはならなかったと。

先生は弾けてしまうから…弾けない人の気持ちがわからない。

弾けないのはなぜ?

練習が足りない

うんうん

じゃあなぜ練習をしないの?

教室に通ってくるってことは、ピアノに興味を持って、楽しめるようになりたいということ。

だから

習いに来ているのに……
どうして 練習してこないのかな?

と、相手側にばかり目を向けるのではなく

まず、自分はどうなのか?

練習できるようなアプローチはできているか?

子供が上達しない理由、練習してこない理由は、たくさん思い浮かぶはず…

100人いたら100通りのレッスンがある。

進度も曲の感じ方も伝え方も、限りなくあるはず。

中学の担任からピアノを続けていることに対して

「続けるって大変なこともあるけど、続けていく中で、見えてくる景色が変わるよ」

と言われたこともあり、私は「ピアノの先生」という職業に興味を持ち始めたのだと思います。

きっと先生の姿と 自分を重ね合わせていたのかな…

自分だったらこうしたいなぁ …

こんな時は・・・と、未来の自分をイメージしていたら、レッスンの向き合い方、気持ちの方向性にも変化が現れてきました。

その後、私は職業としてのピアノの先生を選択し、東邦音楽短大 ピアノ科へ進んだのです。

ピアノ指導者は、常に演奏技術面や指導力の向上を図る努力は必須です

でもそれ以前に、生徒さんと真剣に向き合っていく心がなければ、相手の方には受け入れてもらえないのではないか?… と。

その人(子)にとって、今、大事な事、伝えたい事を

その人(子)の立場になって考え、全力で向き合う‼

この想いだけは絶対、持ち続けていく‼

私も大人になり、結婚、出産、子育てをする中で、親が子供を想う気持ちの重さや、子供たちの成長過程の変化も、経験からわかるようになりました。

レッスンに通ってきて下さる生徒さんが

「今日はピアノに行って 楽しかった😄」

「弾けなかったあのフレーズが先生と練習したら弾けたよ😄」

と言って、ニッコリ・ほっこりできる教室でありたい‼

ピアノレッスンを通して

生徒さんには自分を大好きになって、自信を持っていて欲しい

生徒さんが、自分のペースで、自分の意志で、努力する、挑戦する事を、一緒に伴走しながら応援し続けていきたい。

そんなピアノの先生であり続けたいです。